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胸の中には、言葉に出来ない、言葉がある

次のような実話の記事を目にしました。
心温まる話なので紹介します。

ある日。
姉夫婦が深夜のコンビニでのバイトを終え、車で帰宅途中、酔っ払い運転の車にぶつけられた。
2人は、帰らぬ人となった。
最初は、何がなんだか分からなかった。
当時、結婚したばかりだった俺は、『人生って上手くいかねぇな』とか『神様って本当に居ないんだな』とかそんなことばっかり考えてた。
当時、5歳と3歳の姪が2人残された。
2人をどうするか、両家の家族で色々と話し合った。
ウチの両親は当然、今までの姉の苦労を知っていたから、自分達が引き取り、ちゃんと育てると言った。
確かに両親は自分の目から見てもちゃんとしているし、問題無いだろうと思っていた。
しかし、義兄の家族は、既にウチの親父が定年で会社の嘱託顧問となっていたため、『今後の収入が期待できない』と言い出した。
義兄の親は自営で、一応収入はあったが、先行きには期待できなかった。
そんな話し合いの中、俺は姪2人に聞いた。
「俺と住むか?」と。
2人は「ウン」と言った。
嫁に事情を話すと、2人産んだと思えば良いと言ってくれた。
『裁判をする』と言っていた義兄の家族も、『まだ、若くて収入が期待できる人ならば』と納得してくれた。

こうして、俺は突然、2人のパパになった。
2人の姪は素直だったが、俺と嫁のことを「パパ」「ママ」と呼ぶことに抵抗があったようだ。
次女は比較的早くから嫁を「ママ」と呼んでいた。
嫁は「ママと呼んでくれた」と、1人で泣いていたのを覚えている。
パパと呼び出したのは小学校に入るくらいかな?
しかし、長女は時間がかかった。
嫁のことをママと呼ぶまでに7年掛かった。
俺は結局、パパと呼んでもらったことは無かった。
そんな長女も高校生になった。
大学も当然考えるようになったある日のこと。
嫁が高校の3者面談に行くと、長女は自分の希望をこう言ったという「音大に行って、音楽の先生になりたい」
と。
これで俺はピンと来た。
姉は小さい頃からピアノをやっていて、長女も3歳ごろからピアノをやっていた。
俺と一緒に住むようになってからも続けていた彼女なりに、産みの親とのつながりを持っているんだと思った。
長女は東京の音大に進みたいと言い出し、結果、推薦を貰って、この春希望の大学に進学した。
結局、俺は一度も「パパ」とは呼ばれず、俺はあだ名で呼ばれていた。
長女が東京へ旅立つ日、俺は出張で海外にいた。
帰国すると、長女が家族全員に書いたという手紙を嫁から貰った。

以下、そのまま。

○○へ
泣きながら(次女の名前)と2人で○○と暮らし出したのを昨日のことのように覚えています。
怒られてムカついたし、一緒に遊んでくれてすごい嬉しかったし、本当に感謝してます。
ありがとう。
そんな私を東京の音大にまで出してくれて、本当に本当にありがとう。今まで以上に言うこと聞いて良い子になって帰ってきます。
最後に
パパ、本当にありがとう、大好き。

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