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宗教儀式が生活を圧迫する矛盾

近年のインドでは、葬儀をあげる度に経済破綻する家庭が増えています。
宗教的に葬儀は多くの人を招き行うのが礼儀とされるため、その地域でメンツを保ち暮らしていくためには死者を弔うために全財産を投げうって借金をし宴を催すのです。
先祖がずっと続けてきた慣習を自分の代で終わらせる勇気がないのです。
社会がそうはさせない空気なのですね。
誰かが「もうやめよう」と声をあげれば、すぐに大勢の人が賛同するでしょう。貧しい人はみんな苦しんでいるのですから。
しかし貧困者が声をあげることは出来ません。
こういう時に、豊かな人間、権力を持つ人間が貧困者に寄り添い慣習を変えるしかありません。
しかし金持ちは、金の事しか頭にありません。
人が目に入らないのです。
この時点で憑依霊が思念をコントロールしています。
一つの体に同居しているとイメージしてください。

ほんの少し前までの日本の檀家制度も同じ構図です。
人が死ぬ以上、半強制的に入らなければならなかったお寺の会員制度です。
住職が住む住居の改築改装までも檀家は無条件に折半し現金を寄付しなければなりません。
今客観的に見ればおかしな話なのですが、昔は(地域によってはまだ続いているかもしれません)そういうことが当たり前にあったのです。
私も記憶にあります。
コツコツ貯めてきたお金を定期的にお寺に持っていかれる大人たちの愚痴を聞いたものです。

宗教が人を苦しめている以上、その宗教に神様は不在です。
簡単な理論です。
神仏を語った人間の組織、儀式、というだけのことです。
神様は、社会的弱者、そして弱者に寄り添う人に寄り添うのです。

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